2012年11月27日火曜日

【書籍】ワークショップ 人間生活工学(第一巻)

たくさんの人に、自分のつくった物を使って欲しいと考えたとき、まずはたくさんの人に使ってみたいと思ってもらうことが大切です。それは、広告を通じてたくさんの人に知ってもらうということでも実現できますし、それを触ってみたい、使ってみたいという魅力的に感じるようなものをつくることでも実現できます。

しかし、それがどんなに使ってみたいと思えるものでも、もし一度しか使われないというのなら、それは本当にたくさんの人に使ってもらえる”いいもの”と言えるのでしょうか。一度使って終ってしまうようなものではもったいないでしょう。本質的にたくさんの人が使い続けていたいと感じるものこそが、ある目的のためには欠くことのできないものこそが、きっと本当に”いいもの”と言えるのではないかと思います。そして、その積み重ねこそが、その”いいもの”をさらにたくさんの人に使ってもらえる結果を生んでいくのではないかと思っています。

社団法人 人間生活工学研究センター編の「ワークショップ 人間生活工学」
は、そんなよりいいモノづくりのために編纂された本だそうです。まだ第一巻の”人にやさしいものづくりのための方法論”しか読んでいないのですが、この一冊でもとても有用で内容のぎっしり詰まった良い本だと思いました。

ユーザビリティや最近よく耳にするUXという言葉でかたられているような体験のデザインに関する話はもちろんのこと、人にやさしいものづくりのためにどのようなプロセスを踏んだら良いのか、それに対してどのような組織づくりを考えたら良いのかということも書かれていました。

このような本の多くは、その方法論を自分の環境にまるっきり当てはめてしまうということによって、とても間違えが起こりやすいものではあります。ただ、実践的な有用性を目的に書かれている文章でもあるので、そういった面にも気を使われているのが伝わってきたのがとても好印象でした。

ここで、定義されている人にやさしいものづくりとは、

人:stake  holderは誰か? 何をするか、したいのか?stake holder とは, ユーザはもとより, 購買者, 販売や維持管理, 廃棄に関わる人など, 当該製品に関わりをもつすべての人のことである.
やさしい:人間親和性・生活親和性の具体的品質特性は何か?
もの:ユーザ(stake holder)の広がりからみた製品の性格はどのようなものか?
つくり:どのような開発プロセスに(例:人間中心設計過程など)に, どの程度, 厳密に従ったものか?

(p188 一部略)



と書かれています。この定義に対して、どのような考え方があるのか、どのような調査をして分析をしていくか、どのような基準を参考にすることができるのか、どのように実践をおこなっていくのか、ということが丁寧に書かれていました。

生活の研究、製品の美しさ、開発プロセス、安全性、ユーザビリティ、ユニバーサルデザインなど、それらをどのように実践に移していけばいいのかということが、これまで研究され、実践されて蓄積されてきた知識をもとにして丁寧に書かれていました。

ISOで定義されている規格、法律で定められている安全性など、企業の組織やコストなどをふまえた上で書かれているので、実践的なものづくりのをしているひとにとっても、研究としてものづくりを学んでいる人にとっても、とてもに参考になる本ではないかと思います。

2012年9月17日月曜日

【書籍】生物から見た世界(ユクスキュル / クリサート)

鳥や虫の中には人間には見る事のできない紫外線を見る事ができるものがいます。ヘビには人間に見る事のできない赤外線をを知覚する事ができるものがいます。構造的に見れない世界を人間が見る事ができるようになれば、きっと世界は変わるのではないか、と言っていた友人との会話から、ユクスキュルの「生物から見た世界」(日高敏隆・羽田節子訳)を勧められたので、読んでみました。


 この書籍の原題は
「Streifzüge durch die Umwelten von Tieren und Menschen : Ein Bilderbuch unsichtbarer Welten」
で、英語への翻訳では
「A stroll through the worlds of animals and men: A picture book of invisible worlds. 」
と訳されているようです。英語版は原題のほぼ直訳で、これをさらに直訳すると、
「人と動物の世界の間を散策する -目に見えない世界の絵本-」
といった感じになるでしょう。つけらている邦題は若干固いように思えますが、それに関しては訳者あとがきに説明書きがありました。

内容は、邦題、原題の意図を取り組んだ所で言うと、学術的な姿勢をとりつつも、わかりやすく、取っ付きやすく説明するように書かれているものでした。 先程述べたように、人間と違う知覚器官をもった動物。その動物から見た世界はいったいどんな世界になっているのか、そしてそれを人間から見た世界と同様に扱ってみていいものか。そういった疑問からこの書籍は出発しています。
なぜなら、主体が知覚するものはすべてその知覚世界(Merkwelt)になり、作用するものはすべてその作用世界(Wirkwelt)になるからである。知覚世界と作用世界が連れ立って環世界(Umwelt)という一つの完結した全体を作り上げているのだ。 - p7
われわれに関係があるのは二つの客体の間の力交換ではない。問題は活きている主体とその客体との間の関係であり、この関係はまったく異なるレベルで、つまり、主体の近く記号と客体の刺激との間でおこるということである。 - p21
二つの客体と、主体の関係性によって作り上げられている環世界という全体を考える。この世界観は、他の分野にもあてはまるような所があるのではないかと思いました。
先日読んだエドワード レルフの「場所の現象学 -没場所性を越えて」における場所性、没場所性の関係性、しっかりと理解をしている訳ではないですが、ニコラスルーマンのコミュニケーションの連鎖に関するその主体、客体とその連鎖の結果の関係。このように様々な分野で、主体的な世界と客観的な世界、そしてそれを総合した世界について語られているような気がします。

その世界観を、同じ世界にいながらも、全く別の知覚器官をもった様々な動物や人間を比較することによって、明らかにしていっています。動物という、明らかに機能の異なるものを用いている事によって、その関係性が非常にわかりやすく説明されているような気がしました。 

本書は、とても短い内容になっているので、具体的な例に関しては特に言及せずに、同時に読んでおきたい本を、自分の読んだ本の中から上げてみたいと思います。 

「ソロモンの指環―動物行動学入門 」コンラート・ローレンツ
「生態学的視覚論」J.J.ギブソン
「空間の経験」イーフートゥアン

本著「生物から見た世界」は、動物と人間の見えている世界、という所にとどまらず、主体と客体というより高次なテーマについてとても示唆に富んでいる内容を、入りやすい形で提供してくれる書籍になっていると思います。動物や生態学が好きな人だけでなく、様々な人におすすめしたい本だと思います。

2012年9月8日土曜日

【書籍】場所の現象学 エドワード・レルフ

温泉地や観光地などは一つ道路を挟めば、何の特別なところもないような民家が建ち並ぶ普通の風景だったりします。でも、多くの人はそこには立ち入らないで、ガイドブックに決められたような道をあるくことが多いでしょう。

 以前、大学の授業の関係(ゼミの合宿)で、北海道の函館で地元の方にお話をお聞きする機会がありました。函館の市電が走っているあたりは、観光地として整備されていると事で、実はとても寂れていて、本当に人々が暮らし、にぎわっている所は山一つ挟んだ向こう側だと言う事だそうです。すでに5年以上も経っていて、ほんのお酒を飲みながらほんの少し話した程度だったので、具体的な内容に関しての記憶は曖昧ですが、その時聞いた話は、「旅行」において、「場所」を体験するということが、いったいどういうことなのかということを考える一つのきっかけになっています。

エドワード・レルフ(Edward Relph)の著「場所の現象学―没場所性を越えて」(筑摩書房)を読みました。この本は原題は「Place and Placelessness」で、訳書における小題の部分が全体を通しての主張になっていました。イーフートゥアンの「空間と経験」よりは、より分析的で、主題をはっきりさせた内容になっていて、取っ付きやすいかもしれません。

前半部分では、「場所」とはいったいどのようなもののことで、どういう分類ができるのかというのの分析、分類方法のを示し、後半部分では、そのなかでも、或る人にとって意味を持つ場所であり、空間、時間、人の体験などに基づいて生み出されるような「場所性」に注目し、現実社会に存在する作為的で均一化した「没場所性」と比較しながら、どのような場所が望まれているか、どのような場所を作り上げていけば良いのか、ということの考察がされていました。
私たちは、多様かつ奥深い「場所」に文節された世界の中で生活し、活動し、自らの位置を見定めているけれども、そうした場所の成り立ちと私たちがそれらを経験する仕方については、乏しい理解しか持ち合わせていないようだ。一見これはパラドックスに思えるかもしれないがそうではない。なぜなら、知識というものはいつも明らかなものであったり、その価値に気づかれている必要はないからだ。- p.037 
本書の目的は、私たちの日常経験からなる生きられた世界についての地理学的現象であり「場所」を探求する事である。- p 038

さて、2章の「空間と場所」、3章の「場所の本質」では場所とはどういうものかについての話をしていました。いくつかの視点から切り口を見つけ、こちらの章では主に「場所」そのものとはどういうものかという事に焦点が当てられていました。その過程ので、人と場所とのかかわり合いの事を次第に明らかにしていきます。そして、その後の章ではその「かかわり合い」。いいかえれば「関係性」に焦点が当たり話が進められていきます。
場所は行動と意図の中心である、それは「我々がそこで自分の存在にとって意義深い出来事を体験する一つの焦点である」(Nirberg - Schulz 1971 p19)。
タイトルになっているので当然ではありますが、「場所性」と「没場所性」に焦点が当てられています。没場所性を説明する章では以下の引用がされています。
人類から多様性が消え失せた。世界のどこへ行っても同じような行動や思考や感じ方に出くわす。これは、諸国がお互いに影響し合い、よくまねし合うからだけではなく、各国の人々が身分制度や職業や家族に対する特有の考えや感じ方を無くしていって、みな一斉に同じような体質になってきたからだ。こうして、彼等は互いにまねしあわなくても、似た者同士になってきたのだ。
端的に多様性を求め差別化を図るというのは、あまりにも極端で、こういった感性のあり方についてはとてもセンシティブな問題だと思うのです。ただ彼が、ツアーによる均質化された旅行や、ディズニーランドのような作為的な閉鎖空間(これを偽物性と呼んでいる)というのを取り上げて、 均質化のみを求め続け失われた感性に対してある種の警鐘をならしているという点には、一部共感せずにはいられない部分がありました。
 かといって、そのような没場所性的なものが全くの害悪かと言われれば、そういうではなく、そういう存在があるからこそ、愛着をもつ事のできる本物の場所性というものが生まれるとも考えられるとのことでした。

「場所」に関してもそうですが、これは様々な事に言える事ではないかと思います。人とモノとの関係性、人と出来事との関係性、そして人と人との関係性、人をなにかとの「関係性」に何らかの焦点をあてて考える場合、この「本物性」と「偽物性」からなる、感性のあり方について問われているというような気がします。もちろんどちらが良い、悪いということではありませんが。


参考:ヤバ借(やば-しゃく)という考え方 ディズニーランドがいかようにつくられているのかが垣間見えるのでとても面白いです。没場所性の設計について思わせてくれるところがあります。

2012年8月27日月曜日

【展示】テマヒマ展


テマヒマ展へ行ってきました。とても美しい映像で紹介され、きちんと見栄えのするように置かれている美しい道具たち、きめ細かくつくられた特産品の数々。佐藤卓さんと、深澤直人さんの視点によって、作り上げられたとても美しい展示だったとおもいます。

静かで美しい音楽や、陽気で活きのいい音楽、それに合わせてつくられた映像が、ものに魂を込めている人たちの美しい姿を映し出しているようでした。

東北のものづくりには、合理性を追求してきた現代社会が忘れてしまいがちな「時間」の概念が、今もなお生き続けています。
-- 中略 --
東北の文化や精神を背景に生まれたものづくりから、今後のデザインに活かすべき知恵や工夫を探ります。
http://www.2121designsight.jp/program/temahima/


作り手の視点、というのを大切にしているのは、映像のモチーフを「手」で表現していた事からも伝わってきました。焦点を当てなければ見過ごしてしまうような作り手の存在、それを新たに発見するきっかけにもなるのではないかと思います。

ただ、個人的に残念だったのは、「使い手」の存在に関してのことでした。「用即美」。もともと使い手であったであろう、作り手の存在。用に即したもの作りというものには、むしろ今の作り手そのものではなくて、作り手に変わっていく使い手こそが求められるものなのではないかと思っています。プログラマー的に言えば、仕事のためにカスタマイズした、スプリクト達やディレクトリ構成みたいな感じですかね。

手で触って、使って、そして考える。そして少しずつ変えていく。ものづくりの可能性も大切ではありますが、むしろ「使う事」の可能性というのも無視できない大切な存在なのだと思うからです。「使う事」の感動からの距離は、たぶん展示品とお客さんの距離くらいにはあったのではないかなと、そんな気がしたのでした。このテーマだったらもっとこう、手に馴染むような感覚が欲しかったな、と思ったのでした。とはいえ、時間とかがかかるものだとは思うのでそれも難しいかとも。

なんか、文句ばかり書いているような感じではあるけど、展示はとても良かったです。不思議な静けさと、美しさがあった感じでした。あと、ブログがとても良さそうなので読みたいと思います。(http://www.2121designsight.jp/documents/exhibition/cat-2/

2012年8月26日日曜日

【書籍】藻谷浩介さん、経済成長が無ければ僕たちは幸せになれないのでしょうか?

お祭りへ行ってきました。お祭りに行くといつも感じるのですが、祭りをつくる人たちを動かす力があって、そしてその力とはまた違う力が働いて人々が集まってくる。そんな風に感じています。そのエネルギーの中にいると、人が生きて幸せを感じるという事は、決して経済だけでは語ることのできないと、そんなような気がします。

さて、地域の課題を地域に住む人たちが解決するためのコミュニティデザインに携わっている山崎亮さんと、地域経済を専門とされている日本総研の藻谷浩介さんという方の対談を書きおこした、
「藻谷浩介さん、経済成長が無ければ僕たちは幸せになれないのでしょうか?」
という本を買って読みました。対談本だったのでとても読みやすく、本を買って2時間ほどで読んでしまいました。


啓発系のブログでPVを稼ぐ為に書かれるようなタイトルを冠してはいますが、このタイトルはダグラス・スミスという政治学者の「経済成長が無ければ私たちは豊かになれないのだろうか」という本に由来しているそうです。(p16)

 最初はE・F・シューマッハーの「スモールイズ・ビューティフル」のような内容を想像したのですが、 - 経済成長なんて必要ないんだ! -  や - 人間の豊かさはコミュニケーションだ! - といったような極論に走る事無く、現実に地域で起きている状況と、経済学で出される数字や指標などを対比しつつ、それぞれをどのように見ていけば良いのかという所が丁寧に説明されていたと思います。むしろ”どうすべきか”という主張に関しては、少し距離を置いていました。それについては、内容を読み進めていくうちに明らかになってきます。

 前書きにも記述がありましたが、対談がもとになっているので、その場の空気や時間の関係によって、すべてが網羅されている訳ではないとのことです。その分、それぞれの立場の人たちへの興味を持つきっかけや、歩み寄りのきっかけになるような配慮がされているような気がしました。

 大学時代に山崎さんのされている家島のワークショップにゼミで参加した事があり、その地域に溢れるたくましさやエネルギーを実感していたので、話の内容がとてもスッと入ってきました。逆にその場で感じた事を、別の視点で冷静に補ってくれるような内容になっていたと思います。

 この本だけでは到底伝わりきる事のできないそのエネルギー。感じてみたいという人はぜひ紹介されている場所へ行ってみると良いとおもいます。自分も行った事が無い場所には、一度足を運んでみたくなりました。家島に関しては、もしかしたら今年のアイランダーにいけばすこし感じる事ができるかもしれません(http://www.i-lander.com/2011/index.html)、そして猛威とど読むとまた新たな視点を見つける事ができるような気がします。

 重複になりますが、とても簡単に読めると思うので、地域経済、まちづくりやコミュニティデザインに興味が或る人は、それぞれの事をバランス良く考えるきっかけになるのではないかと思います。個人的にはとても楽しんで読む事ができました。

2012年6月3日日曜日

【書籍】空間の経験(イーフー・トゥアン)


自分が小学生時代を過ごした場所の、最寄りの駅で電車を降りると、もう無くなってしまったスーパーや喫茶店がさもまだあるかのような感覚になったりする。もう、その場所をだいぶ離れているのに、同じ場所で育った人に出会ったりすると、その街で昔、通りがけによく見かけた小さな文房具のお店の話題でもりあがったりする。



大学時代に一度読んだ、イーフートゥアンの「空観の経験」をもう一度読み直しました。
一度読んだといっても、以前読んだ時は途中まででした。ただ、途中までだったのは、退屈であったという訳ではなく、扱っている対象と、そこに対するアプローチの幅が広すぎて、とらえきることができなかったというのが実際の所です。

内容はとても印象的なもので、後々読んだ本を手に取る原点になったと言っても過言ではないと思います。今回は、あらためてもう一度、それも通しで読んでみようと思って、再度この本を手に取りました。全体を読み返してみても、未だとらえきることができず、あと何度か読むだろうというように思いました。

実際、本著文庫版の解説にもこのように書いてあります。

なお、本著は概説的理論書であるということもあって、取りつきにくい面がある。 
空間の経験 p424(文庫版解説 / 小松和彦)

他の書籍や、様々な人の著書を読み解きつつ、時にこの書籍に立ち返ってまとめてみる、というのも良いのかもしれません。というわけで、こちらの感想文は個人的に捉え切れなかった部分を大幅に省いた内容になっているので全体の書評というわけではありません。

さて、本著には「space and place」という原題がついており、その題の通り「空間」と「場所」との関係性について扱った内容になっています。そして、その中身を三つのテーマを絡めながら話を進めていっています。 生物学的な諸事情、空間と場所の関係、そして経験と知識に関係すること、この三つに対して心理学や文化人類学、また文学的な表現も含めつつその概説を示していく内容になっています。

私自身が大学生当時読んでとても印象に残っていた部分は、最初に揚げられている生物学的諸事情について書かれていた部分、主に「経験のパースペクティブ」と「場所・空間・子供」という小題がつけられた部分でした。
人間の知覚(視覚、聴覚、嗅覚、触覚など)が人間の空間、場所についての経験にどのように作用をしているのか。また、その感覚をどのような過程で獲得をしていくのかというのが、子供の成長などになぞらえて説明されていました。内容的には短い部分ではありますが、私たちがこの空間の経験をどのように獲得していくかという所に、様々な知覚が重なり合ってくるという事を、すっと頭の中に入れてくれたという意味で、自分にとってとても新鮮な内容でした。

時間と空間に関する部分では多くのページが割かれて解説がなされていました。この部分に関しては、未だ把握しきれない部分であり、他の人の書いた考察や、イーフートゥアンの別の著書を読んだ後、改めて読んでみたいと思った部分です。
また、「空間」と「場所」の対比において「自由」と「安全」という区分でわけて全体的な解説を行っています。ただ、ここはかなり感覚的な、感情的な表現が含まれているような気がしたので、ここの部分に個人的には「開いた」と「閉じた」という表現にある程度言葉の印象をとらえ直して読んでみた方が良いだろうという印象を持ちました。日本語版へ向けての解説にもそのように説明をされています。

同時に、無味乾燥な環境を生んでしまったspace主義は今日でも終焉したとは言い難いが、”place”だけを唱えると、近代都市計画が陥ったのとは対照的な行き詰まりが待っていることも今日の我々は知っているのだ。 
空間の経験 p410 (解説文/オーギュスタン・ベルク)

と、本書の解説ばかりを引用しても仕方が無いので、最後に自分の仕事とある部分で結びつく可能性のある、と思った部分に関しての引用を残しておこうと思います。

道具と機械は、場所と広がりについての人間の感覚を大きく拡大する働きをする。人が両腕を広げて測定できる空間は、槍や矢が届く距離で測定される空間に比べれば小さい世界であるが、身体は、これら両方の長さを感じることができる。 
(中略)...この事について、フランスの作家で飛行機の操縦士でもあったアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリは次のように述べている。 
-- 一見したところでは、自然の大きな問題から人間を隔てる道具のように見えるこの機械は、実際は、もっと深く自然の問題に人間を関わらせているのである。農夫にとってそうであるように、操縦士にとっても曙光と薄暮は重大な事がらになる。操縦士の本質的な問題は、山、海、風によってもたらされる。狂暴な大空という大きな裁きの庭に立った一人で引きずり出された操縦士は、運んでいる郵便物を弁護し、山、海、風という神々と対等の立場に立って弁論するのである。 
空間の経験 p.99

空間の経験 著者:イーフートゥアン 訳者:山本浩 筑摩書房


2012年5月13日日曜日

【書籍】今和次郎「日本の民家」再訪

散歩をしていると、ふと街や家などといった環境の移り変わり痕跡を目の当たりにしてドキドキとする事があります。そういった痕跡は、常に人間の営みの変化を映し出す鏡として、たくさんの事を教え、そして想像させてくれます。
京成線高架下にあった「南米食堂」という看板。他に「・・パイプ」
「・・衡機製作所」という看板が残ったままになっていました。


瀝青会の今和次郎「日本の民家」再訪 を読みました。今和次郎もそういった人の営みの移ろいを、「建築」とくに「民家」という対象を通して書き残しておいたのが「日本の民家」というもののようです。当の書籍に関しては読んでいないので、はっきりとした事はわかりませんが、この「日本の民家」に今和次郎が書き残した当時の民家が今どうなっているのか、というのを確かめるのが、この書籍に通じる調査の発端だったと言う事だそうです。

私自身は建築に関して、ほとんど知識もないのですが、とても読み応えのある本だったと思います。建築のみでなく、調査にいたる移動や、実地での調査に至るまでの過程の話、それらがすべて人々の営みに通じるものがあるというのが伝わってきました。もちろん、調査した人のそれぞれの息づかいなども伝わってきます。

とても面白かったので、以前やっていた今和次郎展などに行かれた方など、興味を持っている方ならば、とても楽しく読めると思うものでした。

個人的には下記の引用がされている部分が印象的でした。

郊外に立つて、校外の美しいプランニングと云ふことを念頭に置いて見廻すと、一等醜く思はれるものは都会から吐き出されたやうな不具な住宅その他が散乱してゐることである。
....
 「Ⅲ 間取りに就いて、処女郊外地への同情」 『日本の民家』初版 103頁
今和次郎「日本の民家」再訪 47頁

いろいろと考えを巡らせながら、電車からの景色を楽しめそうな気がします。

2012年3月25日日曜日

【書籍】方法序説(ルネ・デカルト)

誰もが一度は聞いた事があるであろう、ルネ・デカルトの

「我思う、故に我あり。(仏:Je pense, donc je suis)」

この言葉が書かれたのがこの、「方法序説」であることはおそらく言うまでもないのですが、はずかしながら実際にこの本を読んだことがなかったため、それがどういう文節で語られたものであるのか、またこの「方法序説」とはいかなる文章であるのかというのを初めて知りました。


方法序説は原題を

理性を正しく導き、もろもろの知識の中に真理を探究するための方法序説Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la vérité dans les sciences

 というらしく、まさしくタイトル通りの内容でした。哲学の重要な言葉が出る書籍として、かなりハードな内容を想像したものであったが、実際はそうではなく、一般の人に向けた科学的探求における私的態度の表明をしたエッセイという調でした。文章もわかりやすい言葉で書くという事を目的として書かれたもののようです(訳書もわかりやすかったです)。

 というのも、もともとは現代でいう理工学書のappendix(補遺)的な意味合いで、「屈折光学、気象学、幾何学」に関する書籍を出版する際に付加されたものなのだそうです。想像していた存在論的(?)な意味合いは全体を通して強調しているとは感じる事ができず、「真理の探求に魅かれた研究者が、誰にも邪魔されず安らかで自由な研究を行うための方法論と、研究に対する態度」を教えてくれるような内容のように思えました。人間が自分についての事を探求する事についても述べられていますが、これもその他の研究対象と同様なスタンスをとった結果、という印象をうけました。

高校の時の倫理の授業で、デカルトの方法序説についての説明があったと思いますが、この程度の難しさ、量の文章ならば、できるならばすべてを読ませてもいいのではと思いました。もし、大学に行くのであれば、誰もが学問に関わる事になるのですから、学問の探究における基本的な態度がわかりやすく示されているこの書籍は読んでいて損は無いと思いました。

「我思う、故に我あり」

少なくとも、自分の中ではこの言葉は一人歩きしていたような気がします。途中、神の話とかが出てくる部分がありましたが、キリスト教や宗教に関して違和感や、拒絶感のある方がいるとしたら、今この現代で言う所の「時代の空気」というように読み替えてみると、すっと入ってくるような気がします。ただ、たくさんの研究者たちが言質を述べているこの文章、もっともっと奥は深そうではありますが、最初は気軽に手に取ってみるのがいい本だとおもいました。そして、気軽な気持ちで解釈してみればいいと思います。


訳者も述べていますが、「哲学(学問)」に興味を持つ人であれば入門書としてまずは手に取って読んでみるべきだと思いました。




ちくま学芸文庫
「方法序説」 ルネ・デカルト(訳:山田弘明)

2012年3月22日木曜日

【書籍】社会システム理論(井庭崇)・序章まで

井庭崇さんと、社会学者の方々の対談本である「社会システム理論」を読み進めています。この書籍の編著者である井庭崇さんが専門に扱っていらっしゃるニコラス・ルーマンの社会システム理論を中心に、いくつかの社会システム理論をもとに社会をとらえる事を目的として書かれている、ということだそうです。

ルーマンの「社会システム理論」は、SFC時代に当の井庭崇さんの授業でであったのがきっかけで、この社会システム理論に関しては、佐藤勉監訳の上巻のみを読んだだけでした。つい先日Ustreamで当書籍が紹介されてたのをきっかけとして、再び「社会システム理論」の門戸とたたくという事になりました。当時読んだルーマンの「社会システム理論」は言葉の扱いがたいそう難しく、混乱しながらじっくり読んでいったのを覚えていますが、結局わからずじまいだと言うのが本音でした。

今回この書籍を手にとり読み進めている所ですが、なんとなく理論についてつかめてきている気がする部分や、それに対して思う事が出始めました。章を段階的に読み進めると、時代的な広がりをみせるのではないか、ということでしたので、その広がりを考慮しつつも、今、思った事を忘れないように少しずつではありますが書き留めておきたいと思います。

今回は、この書籍の中の、序章についてです。この章は、ルーマンの社会システム理論についての概説が書かれています。まずは読み進めていく間にメモをとった言葉を箇条書きにし、そこから順を追ってこのルーマンの社会学について思う所を述べていきたいと思います。あくまで、ルーマン自身の著書を読んでの感想ではないということを前提に考えていただきたいと思います。

■社会システム理論(ニコラス・ルーマン)について
  1. 仮定的な並列性を基盤とした分析手法
  2. 卵が先か、鶏が先か
  3. 進化について考える
  4. フレームワークで大切な事
以上の順番に考えを書き留めていきたいと思います。

1.仮定的な独立性を基盤とした分析手法

これはルーマンの社会学の理論はこんなものじゃないか、という事を乱暴に一言でまとめたものです。これを少し詳しく言い換えると、社会の各々の仕組み(法律、経済など)に関して、コミュニケーションという人を介在させない「変数」によって分析することによって、各仕組みが独立性を保ちながら連鎖をしていると仮定する事ができ、そこで散見される差異によって社会の特徴を理解する事ができるという事。ここで言うところのコミュニケーション(偶発的であり、本来ならばつながらないように見えるもの)を、連鎖させている要素を分析していく、という所から社会をとらえていくフレームワークである。ということです。
ここで重要になってくるのは「独立性」「偶然性」「連続性」であると読み取りました。「独立性」は分析する対象そのものであり、そして「偶発性」と「連続性」はこの理論の分析自体の分析する要素である。ただ、この「独立性」と「連続性」から、ある一つの疑問が浮かびました。それが次にあげたキーワードにあたるものです。

2.卵が先か鶏が先か

因果性のジレンマと言うそうですが、よく聞く言葉ではあるとおもいます。詳しくはこちら(wikipedia)。連続性について語られる時の多くは、どこから始まったのか?という話に行き着く事も多いような気がします。もし「独立性」と「連続性」の両方を仮定するのであれば、当然この話題は出ないわけにはいかないのではないか、と思いました。「独立性」つまり、「経済」と「宗教」と「芸術」とそもそもそれぞれをある対象を分類し分析する時に、その対象ってどう決めるのか、というところに疑問がわきます。「経済」といわれると何となくわかるような気もしますが、それがはっきりしているかというとあまり自信が持てません。そもそも社会の複雑さや、分析の必要性とは、その曖昧さからくるものなのではないか、と思う節があるからです。中学の時に物理で勉強した太陽光の様に「光源(はじまりの場所)が遠すぎて、ほぼ平行」と仮定しておくことができればいいのですが、それはなかなかに難しく、「えいやっ」で決めてしまうのは、それでは少し乱暴すぎるような気がします。もしかしたら、そこには社会学の前提知識が問われるのかもしれませんが、それを言ってしまうともうきりがないので、次に進みます。そのとき次に浮かんだのはこのキーワードでした。

3.「進化」について

序章では【経済システム】という所の例で、「所有/非所有」という対象から、経済が貨幣というメディアがある事によって「支払い / 非支払い」というコードによって補完されるようになった。という事が書いてありました。これはまさに、進化の過程というようにも思えました。先のwikipdediaにも進化の事が書いてありました。そう考えると、長いスパンで見れば、ほぼ平行と見ていいのかもしれません。ただ、もしそれが進化だとするとこれがまた悩ましいですね。進化は、本来よりも一気に変わっているように見えてしまうと思うのです。進化を区切ってしまう事こそが、変化の境目になってしまう。これでは、何か大切なものを見過ごしてしまいそうな気がします。これが最後のキーワードにつながります。

4.フレームワークで大切な事

これもまた、自分の思う所のものでしかないのですが、フレームワークとはある「決まり事」を行うためのルールだと思っています。これは、プログラミングを前提とした話になってしまうのですが(井庭先生はルーツの一つにプログラミングがあるということなので)、実際のプログラミングでフレームワークを使う場合は、最小限とどめた方がよい事の方が多いとおもいます。(※)応用がなかなか利かなかったり、誤った方法を進めてしまうと、問題がわかりにくくなってしまう事が多いからです。フレームワークとは便利でありながら、実は慎重に扱わなければ行けない部分には使わない方がいい事の方が多かったりします。
逆に言えば、そのフレームワークが簡潔で、適用箇所が明確であるほど、応用すべき所が明確になったりもします。これが、先に述べたように「社会」といういまいち曖昧模糊とした(としているように思えるもの)に当てはめるとなると、思考実験としては面白いと思いますが、さて、それで分析されて世界はいかに。という所まで突き詰めると、なかなか扱いが難しそうな気がします。
これが次の章で語られている、「発見ツール」だと、ルーマン本人が言い切った所につながるという事なんだと思いますが、次の章はまだ途中までしか読んでいないので、詳しくは別の機会にしたいと思います。

以上が、だいたいの読んだ感想でした。



※少し分野は違いますが参考にしたものです。
 ぼくのかんがえたさいきょうのうぇぶあぷりけーしょんふれーむわーく - cho45 -YAPC Asia 2011

2012年2月19日日曜日

【書籍】旅する民俗学

本当に宮本常一さんの著書にははっとさせられる事が多いです。あんまりひとりの人の考え方に傾倒するのはよくないとも思いますし、そもそも彼の文章で話に出てきている人たちは、自分とはまた違う生き方を選んでいる人たちなんだという事をちゃんと意識しなくてはいけない。それでも、奥底にある人間の生きるエネルギーというものは確実にあって、そのエネルギーが何かこうまっすぐな目を通して感じさせてくれるようなそんな視点を与えてくれるのです。

「旅の民俗学 (河出書房新社)」という本を読み終わりました。対話形式で様々な著者と話しながら、旅と人と歴史の事についての話が展開されています。いつも彼の本で見られるのは、時代を関係なく映し出される人間そのものの生き方のように思えますが、本著ではそれだけにとどまらず、そこから歴史の流れや、昔の人々の生き様など、通常の歴史書では決して語られないような、歴史が語られているように思えます。正確な資料を検証した内容という訳ではないですが、彼の目を通してみた住民、そしてさらに、その人々の目を通してみた歴史というのが、彼と対話者の口からストンと落とされるように伝わってくるようなきがします。

あたりまえじゃないかい。海に境なんてありゃせんもの、どこからだってかえってくられるさ(笑)

これは、日露戦争の時にウラジオストック沖でロシア軍艦に捕まった漁師が、たまたま船につないであったボートで逃げ出した、という話をして「あんた、そんなことよくできたな。」と宮本さんが聞いたときの返答だそうです。とても印象に残った内容でした。ここで描こうとしてもどうにもこうにも薄っぺらくなってしまうので、これ以上は書きませんが、ともかくそれは疑いなく体験した人の口から直接はなされた事だということがとても意味を持ってくるものだと思います。

読んでみると、とにかく目から鱗です。

2012年1月15日日曜日

【書籍】スモール・イズ・ビューティフル

さて、今までは日記の方に書籍の感想などを書いていたのですが、こちらのブログ(考察記の方)に書いていこうと思います。とは言うものの、こちらに書くのは人文社会学系(歴史、経済、哲学、思想)と、科学系の事を書いていこうと思っています。書籍は読むのもいいですがやはりちゃんと感想を書き、考察を重ねる事が大事だと思うので一つ一つ丁寧にこなしていこうと思います。ちなみに情報系に関しては「メモ」の方に、デザインなどに関しては「日記」の方に書いていこうと思っています。この分類にはちょっとした理由があるのですが、詳しくは書きません。

さて、E・F・シューマッハ著(小島慶三 訳)の「スモール・イズ・ビューティフル」を読み終わりました。
とても、読みやすい訳書で、内容もとても面白いものでした。個人的な興味の範囲と、社会に対するスタンスが少し似ているような部分もあるかなと思った所もあり、なかなかタイムリーな内容だったので、それも読みやすかった要因の一つであるような気がします。

ものすごくいい加減な要約をすると、「経済が発展する事は大切な事なんだけど、本当に豊かであるという事がどういう事かをちゃんと考ええて、今できる事をしていこう」という事だということを言いたいんだと思います。これは本当に暴力的な読み解きで、現代の資本主義社会の中で、利潤を求め続ける経済や、その中の企業は拡大の一歩をたどる、エネルギー需要も高まり続ける、人口も増え続けるけれどもそれによって社会は本当に幸せになっているのかということ、どういった社会が本当に幸せなのだろうかということへの考察がかかれています。

大きく分けて二つの視点が印象に残っていて、そのうちの一つは科学の成長と来るべきエネルギー危機にどう向かうべきかという事でした。1973年に書かれた本ですが、先ほどに述べたタイムリーであると言う事、その理由としてあげるのであればここにあたると思います。なぜなら原子力とエネルギニーに関する事がしっかりと一章分割いて記述されているからです。ストロンチウム90が人間の骨に蓄積して悪影響を及ぼす可能性がある、など結構細かい事についても書いてあって、出来事が起こってしまってから、「ほらみろ、昔から予言されていた事じゃないか!!」などというのもなにか少し違うかもしれませんが、実感としてなかなかに衝撃的な内容でした。

もう一つは「正しく生きること」についてでした、仏教経済学という基軸で説明されています。多くのものをもとめず、自分に必要なものを最低限の労力で求める事が大切な事である。というのが概要ですが、決して何事も安いものであればいいという事ではなく、粗悪なものでは意味が無いとも解いています。つまり、言う所による「安物買いの銭失い」ということですね。よりよいものを適正な価値として、適正な量だけを求めるようにする事が大事って言う事なんだと思います。

基本的には科学技術や、マクロな経済学の話であり、最後の方の章は大企業の株式保有の話など(これは少しずつ学んでいかなくちゃ行けないけれど)直接的には関わりの薄い部分のように思いますが、「スモールイズビューティフル」一つ一つの事を意識して生きていく事って、大切なんじゃないかと思う無いようでした。

この本を読みながら途中で何となく、

「質素であれ、貧相であるな。」

なんて言葉が浮かんできたので、それを心がけてみようかな、と思いました。
とてもよい本で、しかもなかなかタイムリーだと思うので、経済活動に少しでも寄与している人であれば、一度読んでみると面白いかもしれません。

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