以前、大学の授業の関係(ゼミの合宿)で、北海道の函館で地元の方にお話をお聞きする機会がありました。函館の市電が走っているあたりは、観光地として整備されていると事で、実はとても寂れていて、本当に人々が暮らし、にぎわっている所は山一つ挟んだ向こう側だと言う事だそうです。すでに5年以上も経っていて、ほんのお酒を飲みながらほんの少し話した程度だったので、具体的な内容に関しての記憶は曖昧ですが、その時聞いた話は、「旅行」において、「場所」を体験するということが、いったいどういうことなのかということを考える一つのきっかけになっています。
エドワード・レルフ(Edward Relph)の著「場所の現象学―没場所性を越えて」(筑摩書房)を読みました。この本は原題は「Place and Placelessness」で、訳書における小題の部分が全体を通しての主張になっていました。イーフートゥアンの「空間と経験」よりは、より分析的で、主題をはっきりさせた内容になっていて、取っ付きやすいかもしれません。
前半部分では、「場所」とはいったいどのようなもののことで、どういう分類ができるのかというのの分析、分類方法のを示し、後半部分では、そのなかでも、或る人にとって意味を持つ場所であり、空間、時間、人の体験などに基づいて生み出されるような「場所性」に注目し、現実社会に存在する作為的で均一化した「没場所性」と比較しながら、どのような場所が望まれているか、どのような場所を作り上げていけば良いのか、ということの考察がされていました。
私たちは、多様かつ奥深い「場所」に文節された世界の中で生活し、活動し、自らの位置を見定めているけれども、そうした場所の成り立ちと私たちがそれらを経験する仕方については、乏しい理解しか持ち合わせていないようだ。一見これはパラドックスに思えるかもしれないがそうではない。なぜなら、知識というものはいつも明らかなものであったり、その価値に気づかれている必要はないからだ。- p.037
本書の目的は、私たちの日常経験からなる生きられた世界についての地理学的現象であり「場所」を探求する事である。- p 038
さて、2章の「空間と場所」、3章の「場所の本質」では場所とはどういうものかについての話をしていました。いくつかの視点から切り口を見つけ、こちらの章では主に「場所」そのものとはどういうものかという事に焦点が当てられていました。その過程ので、人と場所とのかかわり合いの事を次第に明らかにしていきます。そして、その後の章ではその「かかわり合い」。いいかえれば「関係性」に焦点が当たり話が進められていきます。
場所は行動と意図の中心である、それは「我々がそこで自分の存在にとって意義深い出来事を体験する一つの焦点である」(Nirberg - Schulz 1971 p19)。タイトルになっているので当然ではありますが、「場所性」と「没場所性」に焦点が当てられています。没場所性を説明する章では以下の引用がされています。
人類から多様性が消え失せた。世界のどこへ行っても同じような行動や思考や感じ方に出くわす。これは、諸国がお互いに影響し合い、よくまねし合うからだけではなく、各国の人々が身分制度や職業や家族に対する特有の考えや感じ方を無くしていって、みな一斉に同じような体質になってきたからだ。こうして、彼等は互いにまねしあわなくても、似た者同士になってきたのだ。端的に多様性を求め差別化を図るというのは、あまりにも極端で、こういった感性のあり方についてはとてもセンシティブな問題だと思うのです。ただ彼が、ツアーによる均質化された旅行や、ディズニーランドのような作為的な閉鎖空間(これを偽物性と呼んでいる)というのを取り上げて、 均質化のみを求め続け失われた感性に対してある種の警鐘をならしているという点には、一部共感せずにはいられない部分がありました。
かといって、そのような没場所性的なものが全くの害悪かと言われれば、そういうではなく、そういう存在があるからこそ、愛着をもつ事のできる本物の場所性というものが生まれるとも考えられるとのことでした。
「場所」に関してもそうですが、これは様々な事に言える事ではないかと思います。人とモノとの関係性、人と出来事との関係性、そして人と人との関係性、人をなにかとの「関係性」に何らかの焦点をあてて考える場合、この「本物性」と「偽物性」からなる、感性のあり方について問われているというような気がします。もちろんどちらが良い、悪いということではありませんが。
参考:ヤバ借(やば-しゃく)という考え方 ディズニーランドがいかようにつくられているのかが垣間見えるのでとても面白いです。没場所性の設計について思わせてくれるところがあります。
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