2011年10月15日土曜日

【書籍】「密教世界の構造」 宮坂 宥勝


「密教世界の構造」 -空海『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』
宮坂 宥勝 著
を読みました。一言の感想から言うと

密教はおもしろい。

と思わせるような本でした。宗教的な教えを説きそのすばらしさを伝えるという内容ではなく、空海の世界観、思想観から生まれた広大な哲学的な背景と、その構造の解説というのが主な内容でした。

密教はおもしろい。
ここでいう「おもしろい」という感想を得たのには大まかに言うと二つの理由がありました。ひとつは、その広大で奥深い思想的背景、そしてもう一つはそこから生まれる美しき日本語文化についてです。
本著の前半では、空海の生い立ちからその思想全般について、中盤以降からは、空海の主著のひとつである『十住心論』(じゅうじゅうしんろん)、正確には『秘密曼陀羅十住心論』から読み解く、空海の思想観、世界観についての解説という内容でした。ここで展開されている「十住心」とは、人間の心について十の項にまとめ示したものであると空海はいっているそうです(p54)

その中でも、特に第七住心、第八住心、第九住心については非常に興味深いところでした。
本来ならば、一つ一つ流れの中で、説明していくのが筋であり、しかも密教の本質は第十心にあるとのことであるそうなのですが、今回はそこについては特に触れず、覚え書き程度に特に印象に残った第七住心について書き留めておく事にします。

第七住心
一切は空なりという空の哲学を通して、自らの心の永遠性を認識する。(p242)

存在するもの(色)は空に他ならないから、もろもろの存在をたてるものの、それはそのまま、さながらにして空である。空は存在するものにほかならないから、存在の諸相を否定するものの、それはとりもなおさずに存在として実在する。だから存在するものは空であり、空はそのまま存在するものである。諸々の現象している存在もまた同様であるから、そのようでないものは何者も無い。(p178)

これはそもそも、仏教の概念で、般若心経の中で『色即是空』というフレーズで語られているものだそうです。聞いた事はありました。空海の説明の中でも「色すなはち是れ空、空すなわち是れ色なり」ということばとして第七住心の説明の導入部分で使われているそうです。浅はかながら、乱暴に要約すると、存在しているもの(色)、そしてそれはつまり、すべて姿なきもの(空)であってそこに特別なものは無い。逆もまたしかりである、という事なんだろうと思いました。(間違いがあるようならご指摘を。)これは存在自体を否定する事によって、すべてのものを人間の人間としての価値観から解き放つという考え方に基づいているように思えました。
西洋的な哲学の中では、人間は動物とは違って特別な存在であるという価値観が大きく根付いている(先日読んだハンナアーレントの人間の条件)ような印象を常々うけ、それを前提に世界観を展開しているように感じてそれ自体あまり好きではないので、個人的にこういった人間世界の考え方はとても好きなのです。

また、この”色”や”空”という言葉についての感覚も、この「色即是空」の解釈によってだいぶ変わってくると思いました。
たとえば「いろはカルタ」でおなじみ涅槃経のいろはうたの出だしです。
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ  つねならむ

”いろ”はにおへど、というのもの「色」に「存在しているすべてのもの」という意味があるということを考えると、その言葉に含まれる印象が一気に広がりを見せてくれます。ネット軽く調べると「いろはにおへど」で、”美しい人”、”美しい花”と解釈しているものを見かけましたが、それも間違いというのではなく、そういった詩的意味合いから、「存在しているすべてのもの」と展開させる事で、一気に哲学的な語りへと誘ってくれるような感覚をうけました。ここに日本文化の神髄が....といってしまうと大げさかもしれませんが、どこか大きな流れに通ずるところは少なからずあるのではないかというのが素直な感想です。

さとりを開きたい訳でも、誰かにすがって救われたいとも思いませんが、こういう意味で仏教を学ぶのも面白いと思うのでした。
ちなみに、読み進めていくともっと現象学的なものだったり、興味深い思想観がちりばめられています。難しことは書いていないので、興味があればご一読を。

2011年9月24日土曜日

【書籍】人間の条件 / ハンナ・アーレント


人間の条件と行っても、人間と他の動物との違いを滔々と語るといったたぐいのものではなく、現代社会における人間の生きる「環境」そのものが「人間の条件」であるという前提のもと、その環境について現代までどのような変化が起こってきたのか、そしてその中で「私たちがおこなっていること(p017)」をテーマにして書かれていました。この環境とは、人間の社会的な状況はもちろん、科学的なもの、地球について、心に関する話など、さまざまなテーマにひろがっています。そこから「人間の条件」明らかにしていくものです。

詳しくはプロローグを読むといいと思います。基本的には、科学と技術についての内容が多かったと思います。

読み終えたと言っても、内容は多くの前提となる知識を要するもので、七割ちかくはチンプンカンプンだったと思います。特に、権力、体力、実力という言葉を使って語られていた政治的な思想の部分や、「工作人」がなぜ特別な存在なのかについてか(ココは結構話題の核となる部分だったのですが....)という事について語られている部分はいまいち理解できない部分でした。もともと言葉の扱いが複雑であった事と、いわゆる近代以前の政治、思想、宗教についての前提知識が皆無に近いので、なかなか理解するという所まではたどり着けませんでした。
父にこの事を話したところ、ハンナアーレントは、ユダヤ人で、ナチスの迫害から逃れてアメリカに亡命した過去があって、それを前提として読むと面白い、ということで伝記を読む事を進められましたが、「理解できない」や「違和感をかんじる」ということはとても大切な事だとおもったので、あえてそういったものを前提知識として取り込まずに、わからないところはわからないままで読み進めていきました。その部分については、そのうち気になったら調べてみようかなと思っています。

序文に関しては、とても刺激的な内容でした。難しくはなく数ページなので読んでみると面白いです。
最後の方に書かれた1文でこの本で語ろうとしていた理由の一遍が伺えます。

本書はこの現代世界を背景にして書かれたものであるが、現代世界そのものについては議論しない。いいかえると、人間の条件そのものが変化しない限り二度と失われることの無い人間の一般的能力の分析に限定されている。



人間の生活が機械化することによってさまざまなことが変わっていったように見えているが、自然のサイクルから、労働のサイクルへかわっていっただけで、決して人間が自然的(動物的?)な生き方から脱したのではなく、抽象的な視点からいえば同じような逃れる事のできないサイクルの中で生きている。そして、そういう世界の中で、「人間」が「人間」として育むべき社会というのが見失われてしまっているのではないか、という事に警鐘を鳴らしているという事がなんとなくですが伝わってきた気がします。

こういった世界を目の当たりにしたとき、次の時代を人はどのように生きる事ができるのか。今、誰の目に見ても世の中が大きく変わりつつあるとおもいます。株価の下落のような資本主義の揺らぎ、大きな災害、宇宙についての話、様々な場所でおこっている革命、昨日は光の速度を超える物質の計測結果がでるなるなどがありましたっけ。そういう新しい変化が起こっている中で、次にどういった世界、社会を目指していくのか、時代をどう見ていく事が欲されているのか。そういうことについてこの本はかたりかけているような気がします。とても難しくてチンプンカンプンですが、今、この本を読む事にはきっと意味があります。

そんな漠然とした思いを寄せながら、この本を読み終えました。また、理解できるようになったとき、もう一度読みたい。そんな一冊でした。

難しいので、松岡正剛さんの読みを。僕は割と的外れな読み方だったような気もします。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0341.html

どうせなのでwikipediaも貼っときます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%81%AE%E6%9D%A1%E4%BB%B6

次は、メルロポンティ「知覚の現象学」を読み進めます。

2011年7月17日日曜日

【書籍】知覚の中の行為


「知覚の中の行為 / Action In Perception」(アルヴェ・ノア/門脇俊介+石原孝二監訳 飯島裕治+池田喬+吉田恵吾+文景楠訳)を読み終わりました。近所の書店をぶらついていて何となく手に取って買った本でしたが、なかなか読み応えのある本で、かなりとぎれとぎれで5ヶ月間かけてじっくり読みました。

最近は、マイケル・サンデル教授の『これからの「正義の話」をしよう』のような、「正義」や「自由」に関する哲学がはやりのようですが、個人的には存在論や、人間のこころに関する哲学(いわゆるコミュニケーション系の心理学ではなく、人間や動物の心の形成に関する話)に関心があるので、非常に興味深い文章でした。
この本で伝えられている内容は1ページ目に明示されていて、本全体を通して以下の主張が丁寧に説明されていました。
「この本の主要な着想は、知覚と行為の仕方であるということにある」p1

「知覚経験は、私たちが身体的技能を所有している事のおかげで内容を獲得する事ができるのである。私たちが何かを近くするかは私たちが何を行うか(あるいは、どういう技能知をもっているか)によって想定される。私たちが何をできるかによって規定されている」 p1 - p2

ネットで検索をかけると、否定的な考察(http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/blog/2009/04/report-the-cuny-cognitive-scie/)もあるみたいで、一つの論点として認知論や、存在論的哲学において注目すべき内容の一つなのではないかという事を想像しています。ただ、自分自身は哲学や認知系に関しては専門ではないので、この内容の妥当性に関して議論は専門家にお任せする事にして、この文章から読み取れる内容に関して、純粋に自分が気になったところや思ったところの感想を書こうと思います。

この著書では、知覚と行為は切り離す事のできない相互的な関係性であり、人間の知覚というものは感覚器の刺激として独立しているものであるという考えを退けて、その刺激自体を不完全でかつそれ単体では意味を持たないものとして説明されています。
人間の心の動きからは、視覚的な知覚を得る場合でも、聴覚的な知覚を得る場合でも、必ず行動可能性に結びつけて語る事ができる。つまり、視覚的な表現、聴覚的な表現、などさまざまな表現の中で人間の行為に直接結びつける表現が、人間のこころの変化に大きく関わるということが考えられるでしょう。これはFlashとかを作れる人であれば、簡単に実験をする事ができると思うので、やってみると面白いと思いました。もちろん自分の体験としても、実感しやすいく楽しいとおもいます。

また、こういった立場は、人間が人間の知覚的機能を損なわず、いかに環境に順応した生活をおくることができるか、またそうするためにどのような道具を生み出すかに対する、一つの指標になるのではないかと思いました。僕が、マイクロソフトの描いた2019年の構想(http://youtu.be/RWxqSEMXWuw)にとても共感を覚えるのも、この知覚と行為における関係性がわかりやすい形で技術的な世界へと投影されているからであるとおもっています。

「動物が初めて「心」というものをもったのは、環境からの刺激が自分の身体に与えている影響に関して、行為に基づいた表象を蓄積する(そしておそらくは、想起し、加工する)ことが初めてできるようになったときのことだ」 - p376 (Humphery 1992,42) ハンフリーの研究からの引用


人間の行動が「こころ」の形成に大きく関わりを持っているのならば、人間が集まりコミュニケーションをとる「社会」を作るのも、人間の暮らす「環境」を作るのも、人間の行動ということになります。表現は大げさになりましたが、人間の行動はそこまでマクロなものでもメタなことでもないと思っています。大切なのは、とても小さな人間の所作だと思うのです。

まぁ、こうやってあれこれ語るのは簡単な事ですが、実際にやろうとするとなかなか難しいものです。実践でできているかどうかと事を棚に上げたとしても、自分が何を勉強したらいいか、何をしていきたいかを決めるのにはとてもに役に立っていると思います。すくなくとも今、こういった視点に立つと、とても面白い時代だと思うのです。

最後に、監訳者のあとがきにも書いてある通り、古典的で有名なものから最近の注目すべき研究に至るまで、知覚に関する経験的研究を参照しながら、考察を進めている文章でした。所々専門的な語彙や、分野に特化した専門家の引用が利用されて入るものの、全体を通して非常に明確でわかりやすい表現が利用されている翻訳だと思うのでとても読みやすいです。
前提知識として、ギブソンの話とかデカルトとかそこら編に関心(僕も深くは知らない)を持っていると楽しめると思います。あと、ガンダムとかのように人間宇宙行ったら知覚のしかたがかわってニュータイプ的な新しい知覚が生まれるのではないか、とかが妄想ができて楽しいです。