2012年9月17日月曜日

【書籍】生物から見た世界(ユクスキュル / クリサート)

鳥や虫の中には人間には見る事のできない紫外線を見る事ができるものがいます。ヘビには人間に見る事のできない赤外線をを知覚する事ができるものがいます。構造的に見れない世界を人間が見る事ができるようになれば、きっと世界は変わるのではないか、と言っていた友人との会話から、ユクスキュルの「生物から見た世界」(日高敏隆・羽田節子訳)を勧められたので、読んでみました。


 この書籍の原題は
「Streifzüge durch die Umwelten von Tieren und Menschen : Ein Bilderbuch unsichtbarer Welten」
で、英語への翻訳では
「A stroll through the worlds of animals and men: A picture book of invisible worlds. 」
と訳されているようです。英語版は原題のほぼ直訳で、これをさらに直訳すると、
「人と動物の世界の間を散策する -目に見えない世界の絵本-」
といった感じになるでしょう。つけらている邦題は若干固いように思えますが、それに関しては訳者あとがきに説明書きがありました。

内容は、邦題、原題の意図を取り組んだ所で言うと、学術的な姿勢をとりつつも、わかりやすく、取っ付きやすく説明するように書かれているものでした。 先程述べたように、人間と違う知覚器官をもった動物。その動物から見た世界はいったいどんな世界になっているのか、そしてそれを人間から見た世界と同様に扱ってみていいものか。そういった疑問からこの書籍は出発しています。
なぜなら、主体が知覚するものはすべてその知覚世界(Merkwelt)になり、作用するものはすべてその作用世界(Wirkwelt)になるからである。知覚世界と作用世界が連れ立って環世界(Umwelt)という一つの完結した全体を作り上げているのだ。 - p7
われわれに関係があるのは二つの客体の間の力交換ではない。問題は活きている主体とその客体との間の関係であり、この関係はまったく異なるレベルで、つまり、主体の近く記号と客体の刺激との間でおこるということである。 - p21
二つの客体と、主体の関係性によって作り上げられている環世界という全体を考える。この世界観は、他の分野にもあてはまるような所があるのではないかと思いました。
先日読んだエドワード レルフの「場所の現象学 -没場所性を越えて」における場所性、没場所性の関係性、しっかりと理解をしている訳ではないですが、ニコラスルーマンのコミュニケーションの連鎖に関するその主体、客体とその連鎖の結果の関係。このように様々な分野で、主体的な世界と客観的な世界、そしてそれを総合した世界について語られているような気がします。

その世界観を、同じ世界にいながらも、全く別の知覚器官をもった様々な動物や人間を比較することによって、明らかにしていっています。動物という、明らかに機能の異なるものを用いている事によって、その関係性が非常にわかりやすく説明されているような気がしました。 

本書は、とても短い内容になっているので、具体的な例に関しては特に言及せずに、同時に読んでおきたい本を、自分の読んだ本の中から上げてみたいと思います。 

「ソロモンの指環―動物行動学入門 」コンラート・ローレンツ
「生態学的視覚論」J.J.ギブソン
「空間の経験」イーフートゥアン

本著「生物から見た世界」は、動物と人間の見えている世界、という所にとどまらず、主体と客体というより高次なテーマについてとても示唆に富んでいる内容を、入りやすい形で提供してくれる書籍になっていると思います。動物や生態学が好きな人だけでなく、様々な人におすすめしたい本だと思います。

2012年9月8日土曜日

【書籍】場所の現象学 エドワード・レルフ

温泉地や観光地などは一つ道路を挟めば、何の特別なところもないような民家が建ち並ぶ普通の風景だったりします。でも、多くの人はそこには立ち入らないで、ガイドブックに決められたような道をあるくことが多いでしょう。

 以前、大学の授業の関係(ゼミの合宿)で、北海道の函館で地元の方にお話をお聞きする機会がありました。函館の市電が走っているあたりは、観光地として整備されていると事で、実はとても寂れていて、本当に人々が暮らし、にぎわっている所は山一つ挟んだ向こう側だと言う事だそうです。すでに5年以上も経っていて、ほんのお酒を飲みながらほんの少し話した程度だったので、具体的な内容に関しての記憶は曖昧ですが、その時聞いた話は、「旅行」において、「場所」を体験するということが、いったいどういうことなのかということを考える一つのきっかけになっています。

エドワード・レルフ(Edward Relph)の著「場所の現象学―没場所性を越えて」(筑摩書房)を読みました。この本は原題は「Place and Placelessness」で、訳書における小題の部分が全体を通しての主張になっていました。イーフートゥアンの「空間と経験」よりは、より分析的で、主題をはっきりさせた内容になっていて、取っ付きやすいかもしれません。

前半部分では、「場所」とはいったいどのようなもののことで、どういう分類ができるのかというのの分析、分類方法のを示し、後半部分では、そのなかでも、或る人にとって意味を持つ場所であり、空間、時間、人の体験などに基づいて生み出されるような「場所性」に注目し、現実社会に存在する作為的で均一化した「没場所性」と比較しながら、どのような場所が望まれているか、どのような場所を作り上げていけば良いのか、ということの考察がされていました。
私たちは、多様かつ奥深い「場所」に文節された世界の中で生活し、活動し、自らの位置を見定めているけれども、そうした場所の成り立ちと私たちがそれらを経験する仕方については、乏しい理解しか持ち合わせていないようだ。一見これはパラドックスに思えるかもしれないがそうではない。なぜなら、知識というものはいつも明らかなものであったり、その価値に気づかれている必要はないからだ。- p.037 
本書の目的は、私たちの日常経験からなる生きられた世界についての地理学的現象であり「場所」を探求する事である。- p 038

さて、2章の「空間と場所」、3章の「場所の本質」では場所とはどういうものかについての話をしていました。いくつかの視点から切り口を見つけ、こちらの章では主に「場所」そのものとはどういうものかという事に焦点が当てられていました。その過程ので、人と場所とのかかわり合いの事を次第に明らかにしていきます。そして、その後の章ではその「かかわり合い」。いいかえれば「関係性」に焦点が当たり話が進められていきます。
場所は行動と意図の中心である、それは「我々がそこで自分の存在にとって意義深い出来事を体験する一つの焦点である」(Nirberg - Schulz 1971 p19)。
タイトルになっているので当然ではありますが、「場所性」と「没場所性」に焦点が当てられています。没場所性を説明する章では以下の引用がされています。
人類から多様性が消え失せた。世界のどこへ行っても同じような行動や思考や感じ方に出くわす。これは、諸国がお互いに影響し合い、よくまねし合うからだけではなく、各国の人々が身分制度や職業や家族に対する特有の考えや感じ方を無くしていって、みな一斉に同じような体質になってきたからだ。こうして、彼等は互いにまねしあわなくても、似た者同士になってきたのだ。
端的に多様性を求め差別化を図るというのは、あまりにも極端で、こういった感性のあり方についてはとてもセンシティブな問題だと思うのです。ただ彼が、ツアーによる均質化された旅行や、ディズニーランドのような作為的な閉鎖空間(これを偽物性と呼んでいる)というのを取り上げて、 均質化のみを求め続け失われた感性に対してある種の警鐘をならしているという点には、一部共感せずにはいられない部分がありました。
 かといって、そのような没場所性的なものが全くの害悪かと言われれば、そういうではなく、そういう存在があるからこそ、愛着をもつ事のできる本物の場所性というものが生まれるとも考えられるとのことでした。

「場所」に関してもそうですが、これは様々な事に言える事ではないかと思います。人とモノとの関係性、人と出来事との関係性、そして人と人との関係性、人をなにかとの「関係性」に何らかの焦点をあてて考える場合、この「本物性」と「偽物性」からなる、感性のあり方について問われているというような気がします。もちろんどちらが良い、悪いということではありませんが。


参考:ヤバ借(やば-しゃく)という考え方 ディズニーランドがいかようにつくられているのかが垣間見えるのでとても面白いです。没場所性の設計について思わせてくれるところがあります。