2018年2月27日火曜日

喫茶ランドリーと部室的な時間について

渋谷ズンチャカ!のボランティアスタッフの活動の中で、よりよいアイディアが出せる環境が欲しい、どういう環境を作ればより密度の高いコミュニケーションが生まれアイディアが創出されるのか、という問いに対する一つの解決策として「部室をつくる」という意見がでていた。

先週の土曜日、みんなで森下にある「喫茶ランドリー」に行った時、自分たちが「部室」と表現していたものに求めている時間の過ごし方に近い感覚があった。良い考察ができるきっかけになったのでまとめておきたいと思う。


部室的な場所について


「部室」と表現したのは、一緒にいる時間が大事と考えたからだった。同じ時間を長く共有するということで生まれるコミュニケーションが、ミーティングのような目的をもった一時的な集まりとは違うコミュニケーションとなり、ふとしたきっかけで面白いアイディアが出るというということを、過去の体験から知っている。それは、ちょうど「部室」や「研究室」といった場所で体験したことだった。

大学を卒業して、いろいろな活動に顔を出してみるようになると、いつもかならず同じ問題にあたることに気がつく。それは「場所」の確保に関することだ。ずっと東京にいるので、東京についてしか語ることはできないけれど、この東京において「場所」を確保することの難しさを実感することが度々ある。

公民館を借りるにしても、借りるための条件があり、さらに事前の予約が必要だったりする。喫茶店はいつでも入れるとは限らず、長く時間を過ごす時はコーヒーをじっくり飲んだり、お代わりをしとどこか申し訳ない気持ちになったりする。ちょうど規模や人数が入れる場所がそもそも見つからないことだってたくさんある。

それに比べて自分たちが過ごしていた部室は、自由に出入りができたし、過ごし方にもそれなりに自由だったし、(実際は間接的には支払っているはずではあるけれど)お金の心配をすることもない。必要なものは自分たちで持ち寄って揃えることもできた。

そう考えると部室は、時間を気にせず、お金を気にせず、周りの様子を気にせずに過ごすことのできたとても貴重な場所だった。制約を気にする必要がない時間を過ごすことが、ちょっとしたアイディアの生まれるきっかけとなっていたのだった。

東京で「部室」を確保するのはなかなか難しい。東京、特に渋谷の周辺は場所を確保するのにたくさんの費用が必要になる。部室を作りたいという話は、いつもその問題につきあたって何か煮えきれない状態のまま、いつもうやむやになっていた。


喫茶ランドリーへ行く


つい先日、渋谷ズンチャカ!スタッフ同士のコミュニケーションツールに、喫茶ランドリーへ行こうというトピックが上がった。すぐに行ってみたいという5人かがレスポンスをし、結果的に当日参加した1人を含めた6人で喫茶ランドリーに行ってきた。


ゆるい参加と集合


喫茶ランドリーへ行った6人のうち4人は直前までバンドの練習をしており、一緒に喫茶ランドリーへと向かった。その中の一人は、もともと参加予定ではなかったがスタジオ練習の流れでそのまま参加した。予定の少し時間に遅れているのにいたが、偶然通りかかった道でたい焼き屋を見つけてしまい、匂いに誘われ空腹も相まって、さらに時間に遅れることになってしまった。到着したところ、ひとりはすでに到着済み、もう一人しばらくしてから到着した。


友達の家で過ごしているようだ


喫茶ランドリーはとても素敵な空間で、その名の通りランドリーがあり、そこにはミシンやアイロンが置いてある。ドリンクを頼めば持ち込みが可能なそうだ。自分たちが座った半地下のスペースにあるゆったりとしたソファーには、ブランケットがおいてあった。あちらこちらに、そこで「過ごす」ということがとても大切にされているように感じる要素がある空間だった。

僕らが集まった理由は「喫茶ランドリーに行ってみる」ということだった。だから、喫茶ランドリーに到着した時点で僕らの目的はすでに達成されており、その先には特に目的がなかった。やることがなくなった僕らは、それぞれ自分がやりたいように活動していた。
ひとりは、パソコンで次の日の準備をしていたし、一人は本を読んでいたし、ちょいちょい会話をしたり、ぼーっとしたりしていた。

「友達の家で過ごしているようだ」

これは、そのなかの一人がポツリともらしたとても印象的な言葉だった。そして確かにその通りの感覚だった。友人の家でみんなで鍋を突き終わった後、することがなくなってダラダラ過ごしているその時間に近いものだったような気がする。誰かと誰かがゲームをやり、一人は漫画を読んで、もう一人はうとうとしている。

ランドリーの環境も相まってか、いつのまにか3時間も過ごしてしまっていた。集合した時のゆるさも、友達に家で過ごす時のそれに近いように思った。


「多様性って大事だと思いますか?」


「多様性って大事だと思いますか?」

ゆったりとした時間を過ごしていると、そこにいる一人から突然この質問が出た。後から考えるとボランティアスタッフのミーティング中に出てきた内容に関することだったけれど、とても新鮮な質問に思えた。

「多様性を大事だと思ったことはないかも」

自分の中から自然に出てきたこの回答も、自分で言ったのにもかかわらず少しの驚きがあった。おそらく、普段のミーティングの後の飲み会では出なかっただろう回答だった。自分にはじっくりと考える時間が与えられており、丁寧に説明するだけの気持ちの余裕がある。大人数の飲み会の沈黙はどことない気まずさがあるけれど、気まずさの残らない「考える時間」という沈黙が許容される時間と空間がその場所にあったからこそ出た回答だったと思う。

この言葉をきっかけに、言葉を整理をしつつ至った自分の結論は「多様性が大事なのではなく、多様性に寛容であることが大事」なのだということだった。よくよく見渡すと、自分たちのいた喫茶ランドリーもそういう空間を意識しているように思えてきた。


ゆるやかな解散


その後、ポツリポツリと帰宅する人が出てきて、ゆるやかな解散となった。帰り際に、今日の体験のそれ自体が「部室」についてのよく考察になったね。という話が出ていた。


見えてきた「部室的」な体験


その日初めて喫茶ランドリーに行って部室的な体験を感じたということは、「部室」という存在があること自体が大切というわけではないということを表している。正確にいうと、喫茶ランドリーのように部室の代わりになってくれる要素がある場所で、過ごし方がある形を成していれば、常時設置された「部室」である必要はない、ということだ。

よくよく考えてみると、「部室」に集まってくる人は本来「部活」という目的に集まってきた人たちだ。「部室」におもむく理由としては、「部活」そのものの用事がある場合、もしくは何らかの用事で学校へ行き、とくにやることがなくなった時だったように思う。僕らの感じている「部室感」は主に後者だ。

部室に誰がいるかは部室に行くまでわからない。たとえ行ったとしても、目的がないからそれぞれ自由な時間を過ごしている。そのうち手持ち無沙汰になると、気になっていたことや、今考えていることをポツリポツリと共有しだす。

思い返せば同じような時間の過ごし方は「部活」を共有していた人以外ともあったことに気がつく。友人の家でくつろいでいる時のそれもそうだし、喫煙所(自分は吸わないが友人がタバコを吸っていた)で授業の空き時間を過ごした時もそのように感じていた気がする。いろんなパターンがある。

そういう感覚になる時は、時間を共有しているが、目的を共有してなくアクティブさを強いられていない時だったと思う。「チル」という言葉が「目的は特にないけれど楽しくのんびりする」という意味で使われていることがあり、まさにそれに近い状態だという話に落ち着いた。


まとめ


せっかくなので、ここまで感じた「部室的」時間を過ごすための条件をまとめておく。


  •  目的に対して集まっている時間ではないこと(もしくは目的が完了し、すでに達成すべき目的がなくなっている状態にあること)
  •  その場でのコミニュケーションが強いられない状況であること。
  • メンバーの行動が時間的に縛られていないこと。
  • ゆっくりと話ができる空間であること。(騒がしくないなど)


これを、ゆるい言い方でまとめれば、「チル」しているということだ。
他にも、色々な要素があるはずだと思う。もしかしたら参加したメンバーが違っていたら違う状況になっていたのかもしれない(それも重要な要素かもしれない)。ただ、今回の体験は「部室的」な時間をつくるヒントぐらいにはなりそうだった。

そういえば喫茶ランドリーも「洗濯」を目的として集まり、その待ち時間や作業時間をチルする時間として共有できるように作られているのではないかなと思った。少なくともそういう時間の共有がされる場所ではあるんだろうと思う。



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